耐えられる程度に抑えた退屈

十代後半から二十代半ばにかけて、身を削りながら考えてきたのは、「自由とは何か」という問題だった。それから先はずっと、その記憶を抱き続けながらも、日々生きていくためにその問題意識を懐柔してきた。それと引き替えに、精神の安定を得た。
面白いと思うことを、やってはきたつもりだ。しかしその「面白さ」とは、所詮「耐えられる程度に抑えた退屈」の別名に過ぎない。
人間は、自分で自分を家畜にすることが出来る唯一の動物だ。
とはいえ過激さ、などといったものが、家畜でないことの証左になり得るわけではない。
過激であることは、ある意味、絶望的に退屈だ。
闘牛が、人間にとっての娯楽に過ぎないのと同じように。
色とりどりの声が聞こえる。
全て環境音楽だ。