2009-01-01から1年間の記事一覧
ある集団の構成員の特徴を数値で表現できるとしよう。もちろん数値は多次元であり、各構成員は多次元空間上の点に代表される。これらの点の分布を観測したとき、何らかのクラスターを見いだすことができるとしよう。一方、この構成員の「幸福度」を数値化で…
我々が獲得する知識、スキル、経験、資格、資産、人脈など(以後単に「リソース」と呼ぶ)の生み出す価値は、「(A)自分自身にとっての価値」と「他人にとっての価値」に分けられる。後者はさらに、「(B)自分の属しているコミュニティの構成メンバーにとって…
我々の役割は、「「それ」をすべきである」と説教することではない。「それ」が実現するような環境を設計し、実装し、運用することである。これがまず大前提。 たとえば、「事実に基づいた議論」を要請するのであれば、統計データ等を容易に(「リテラシーの…
「補正予算見直し」に関して、「しわ寄せで市井の善良な人々が困っている」というフレームの報道が見られるようになってきた。そのような報道が、世論にどのような影響を与え、政治に対するどのような圧力を生みだしうるかを考えたい。誰が、どのような意図…
問題に対する特定の解決手段を「不適切」だと批判したところで、問題が消えるわけではない。それにもかかわらず、「不適切な解決手段」を批判したところでみな満足し、問題のことを忘れてしまうのは何故だろうか。 同様に、問題を抱えている当事者が(解決の…
(1)今日、出版業界は深刻な不況に直面している。しかし、紙のメディアが勢いを失おうとも、「編集」という知的行為の価値は変わらない。ウェブ上で「編集」を活かしたビジネスを展開する方法はいくらでもある。また、出版業界の旧来の収益モデルが機能し…
高度成長期の話。 私たちの「生きる意味」を探求する力は失われていった。 逆だ。高度成長期こそが、私たちの欲求の対象となりうるモノをシステマティックに供給し続けたことで、むしろ私たちに「生きる意味を探求する癖」を植え付けたのだ。高度成長期以前…
他人のそれで埋め合わせることが、果たしてできるのだろうか。この問いは、単に残酷であるばかりでなく、無意味だ。 必然性は、作り出せるものでもなく、それ無しに生きていけるものでもないからだ。 つまり人は、「必然性」との関係において、選択肢を持た…
国の借金が増えると何がまずいのか。単に「国家」の問題だけではなく、個人や企業や自治体にどんな問題をもたらすのか。貿易や外交においてはどうなのか。それらはいつ頃で、どの程度深刻なのか。 初歩的なことなのかもしれないが、これがわかっていないと、…
「記者クラブ制度の廃止=「ノーチェックで誰でも」記者会見に参加できる」と誤解している人、また、チェックするにしても負担が過大になると危惧している人が少なくないのでは?議論の混乱を防ぐために、諸外国の事例をひくなどしてこのあたりの誤解、危惧…
政治家や組織の要職にある人間の「不用意な」発言がメディアで叩かれる、ということがよくある。場合によっては本人の「辞任」を求めさえする。 こういった「発言叩き」には、そのような発言が「面倒をもたらす」というメッセージを当人に伝え、そのような発…
「悪いことが起こっているのは、誰か悪い人が悪いことをしているからだ」「悪いことをしている人は心がけに問題があって、心を入れ替えたら行動が改善されて問題が解決する。」「だから、心を入れ替えるように説得するか、それがダメなら悪い行動ができなく…
ある選択を批判するとき、その選択のデメリットのみに焦点が当てられ、メリットの方には関心が払われないだけではなく、それ以外にそもそもどのような選択が(現実的に)ありうるのか、それ以外の選択がどのような帰結をもたらすのかについて、全く無関心で…
社会を変えるより「私」を変える方が困難だと思う人間はまずいないであろう。「社会を変えようとするならまず自分を変えろ」と言われたりするものだ。それはそうだろう。そのことに特に反論はない。しかし往々にして、「私」というものは、想像以上に取り扱…
現実社会のいかなる問題に対しても、文字通りの根治療法など存在しない。「根治療法と称する手法に一時的に癒される」という対症療法と、「対症療法を手を変え品を変え一生施し続ける」根治療法があるだけだ。
「○○は実在するか、それとも認識によって生成されているにすぎないか」という問いがある。もし、認識論者が「全ての対象は認識によって生成されているにすぎない」と主張するならば、その前提として「認識によって生成されているにすぎないもの」と「そうで…
「ユートピアは死に、代わって秩序無き(思想という意味での)かたちのクリエイティヴィティを、何の抑制もないままにぶちまけること、それは商品支配を実証すること以外のなにものでもない。プロジェクトは商品支配を忌避して存在することなどできないと言…
言葉や行動が精神状態をある程度反映しているのは事実だろうが、所詮「ある程度」でしかない。そもそも「精神状態」なるものは、一つのまとまりのある実態として存在しているわけではなく、多数のパラメーターの集積による複雑で動的なプロセスにすぎない。…
日々経験する無限の出来事の断片を事後的に振り返って拾い集め、そこに文脈を発見(というより発明)し、私は確かに意味のある生を生きてきたのだと再確認する。 それどころか、「そのような過去の再確認をするために」、わざわざ特定の未来を選択しさえする…
にとらわれている人が多いのだろう。これは3つの点で間違っている。 1)心の持ちようの問題ではない。悪い奴が悪い奴として安定的に存在しうる仕組みの問題なのだ。 2)何が悪いかいいかを自分(だけ)は見極められると思っている。ありえない。 3)悪い…
専門家と称する人間、権威ある立場にある人間が、他ならぬ彼らの専門分野で露呈する「愚かさ」に対しては、単なる誤りの指摘を越えて、「怒り」に似た感情を覚えることがある。 彼らに指導される多数の人間や社会全体に大きな影響力を与える立場にありながら…
看板として自分をどう見せるかと言うことだ。 あまりにも看板の表面(=他人の視線が向く部分)にリソースを集中させるために、それ以外の部分ががらんどうになってしまうことがある。 でも多分、これは、何かが間違っている。
力とは、F=ma という式からも分かるとおり、「変化」の別名である。 変化によって力が定義されるのであり、変化の原因が力なのではない。 力は常に、事後的に見いだされるのである。 私たちはただただ、無節操に、無秩序に繰り広げられる日々の雑事を眺めな…
その事柄に関する選択を、極めて軽率に行う。 何をどう選ぼうと、どのみち価値など得られるはずがないと思っているからだ。 一方その事柄に関して、他者から特定の「価値」を根拠に特定の選択を薦められると、手のひらを返したように慎重になる。 これは一見…
自らの心を鎮め、整理して、「よし、これならできる」と思った最初のタイミングで謝罪をしないこと。時に相手は、こちらの謝罪を、自分の主張やこちらへの批判を受け入れる準備が出来た(すくなくとも反論してくる意思はない)証として解釈するので、堰を切…
自分で自分の行為の価値を理解していればそれでいいじゃないか、と思うかもしれない。 違うのだ。言わずもがなだが、我々は決して褒めてもらいたいわけでもない。 ましてや特別な報酬がほしいわけでもない。我々が手がけていることは、その価値や効果や意味…
何も直接モノやカネや情報をくれなくともよいのだ。 例えば、「この水準で物事を考えればよいのか」という、「水準に関する気づき」を与えてくれるというのは、実に強力な支援だ。
(1)「能力は個人に帰属する」という古典的枠組み (2)いわゆる「自己責任論」による、セーフティーネット構築の社会的コスト(=自分は絶対失敗しないと考えている人間にとって、「愚かな」他人のために支払わなければならないコスト)の削減 (3)自…
あるコミュニティにおいては、言論はプロレスだ。 問題を解決することではなく、永遠に議論を続けることが飯の種となっている。問題を起こしては、中途半端な提案を出し、そこから生まれた問題を再び論じる。 そこには経済の本質とでも言うべき、マッチポン…
それを言うことによってどんな影響が生じるのか、当然わかっている。 それを言ったにも関わらず、何が変わるべくもないのか、もちろん知っている。 それを言わずに済ませるために必要な自己制御など、たやすいことだ。 まるでそんなことなど考えてもいないか…