「交渉力の獲得」としての学び

とある大学で、工業高校の先生を支援する2日間の集中演習をやってきた。企画から携わり、打合せや準備を重ねてきたので相当な時間を費やしたが、それだけの価値はあったと思う。受講者にも、大学にも、何かしら、「自分にしか提供できないもの」をもたらすことができたのではないだろうか。もちろん不手際、反省点は山のようにある。しかし、それらを差し引いても「ポジティブな気分」が十分残る仕事だった。これで終わりではなく、次にどう繋げようか、ということを自然と考えてしまう。

遠方から、夜行列車で元同僚がかけつけてくれたのも嬉しかった。大変心強かった。彼は地元の大学で、農業によって地域を活性化するために新しい教育のしくみをつくろうと、孤軍奮闘している。この2日間で、少しでも彼の仕事のヒントになるものを見つけてもらえていたら嬉しい。

やっぱり、人が元気にならないと世の中は変わらない。道具も、思想も、手法も、システムも、使い育てていくのは人だからだ。

普通高校」ではない「専門高校」の支援、というのも大きなテーマだ。本田由紀氏も論じているが、今、小学校から大学院まで、学んでいることのレレバンス(妥当性、卒業後具体的にどこでどのように役に立つか)が極めて低い。

レレバンスが低いことが果たして悪いことなのか、という議論もあるだろう。学校という場所は普遍的な知を学ぶべきところである、と。だったら、「「普遍性」のレレバンスをしっかり示してほしい、と思う。普遍性が力を発揮する状況をデモンストレートしてみせてほしい。そうすればはじめて、「普遍性」「基礎学力」などといわれているものの中で決して「普遍的」ではないもの「基礎」などという代物ではないものが浮かび上がってくるはずだ。

結局、現状ではせいぜい、「教える側」のレレバンス、それも、現実社会とは関係ない教員の日々の精神生活の安定のためのレレバンスが追求されているにすぎないのではないか?それを学生には見透かされているのだと思う。教員もかわいそうだ。教員に、希望がない。それには耐え難いから、「〜式教育」「〜法」といった擬似的な希望を導入してきて粉飾する。

社会の歯車になる人間を創り出すのが教育か、という反論も来るだろう。しかし、歯車にさえなれない非就労者を大量に生み出すのが教育なのか?一定程度社会で役に立つ技能をもっているからこそ、それ以上の権利を主張し、その「役に立つ」という枠組みに縛られない創造性も発揮できるのではないか。
「役に立つ」とは何も旋盤加工の技術をひたすら修得することとは限らない。「企業で」役に立つことだけとも限らない。

社会に役に立ってこそ、社会を変える「交渉力」を持てるのではないか?

このことを無視して、社会に対する批判をまきちらしている「評論家」は、結局社会に対する交渉力を持ち得ないが故に、何の影響力を与えることもできない。

学びとは、対社会という意味では、「交渉力の獲得」だ。
対個人でも、自分自身に対しても、基本的には同じだと思う。
他人に協力してもらいたいとき、自分の思考を次のステージまで持ち上げたいとき、一体どんなカードを切ることが出来るか。そのカードが手元に無ければ、それは不可能だ。