広告モデルとアテンション

前からずっと考えていて未だにすっきりしないのだが、やはりコンテンツの「広告モデル」には原理的に無理があるのではないだろうか。
だって、コンテンツがかせいだアテンションを、どさくさにまぎれて広告が横取りするわけだよね。それってどう考えてもユーザーにとってノイズだし、不愉快でしょう。
コンテンツ連動型広告にしたって、本当に必要ならコンテンツに組み込まれていればいいわけで、あえて付け加える必要ないよね。プロダクトプレイスメントだって必然性がなければ白けるだけだし。東芝が家電から撤退したらサザエさんどうなるんだろうみたいな。
その点、街頭広告はまだわかるんだよね。だってアテンションが向くようなコンテンツがもともと無いから。信号待ちとかで、むしろ余ったアテンションのやり場に困ってるときに街頭ディスプレイなんかがあるとそれなりにありがたがって見ちゃう。まあ、そのこと自体の是非はあるわけだけど。そういうときぐらい自分の内面にアテンション向けろよ、人として、とかね。
行動ターゲティングなんかの手法も、コンテンツと広告を同時に提示するんだったら同じ事だよね。行動と行動の隙間の、アテンションのやり場がなくなったタイミングに、行動ターゲティング広告を出すのはいいかもしれない。もうちょっと正確に言うと、「アテンションをどこかに向けたいのに向ける対象がない」時間。これに尽きるんじゃないかな。電車とかエレベーターとかトイレとかの中。信号待ち。その他もろもろの待ち時間。
それでもやっぱり、広告自体に情報価値が無いとあんまり意味ないだろうな。
情報価値には二つあって、広告自体のコンテンツ価値と、広告が扱う商品の購入価値。前者は必ずしも購買行動に結びつかないから、当たり前だけど後者が大事で。でも、身もふたもないことを言えば、あんまり買いたい物ってないんだよね。ましてや、「買うことによって自分の生活のクオリティーがわずかばかりでも上がるという期待を抱かせてくれる物」なんて皆無に近い。今の自分で言えば、書籍と、学会・セミナー・ワークショップぐらい。
自分からしてそうだから、他人に何かを売るための広告モデルでコンテンツを流通させようって気にならない。嬉しくない。
あー、でも本とかワークショップの広告なら一度作ってみたいかも。全然儲からなくてもいいから。「これ、ほんとにいいよ!」って心から薦められるものを薦めるための工夫、なら、やってて嬉しいと思う。

話がそれた。

結局、いいコンテンツを作って食って行くにはどうしたらいいか、って話だ。

なんか全然思いつきだけど、

(1)広告を全廃する。
(2)企業は今まで広告費にあてていた予算を、販売している商品毎に、支援したいコンテンツに割り当てる。
(3)消費者がある商品を購入すると、その商品に企業がひもづけていたコンテンツにポイントがたまる。
(4)ポイントが一定の数値に達すると、ユーザーはそのコンテンツを入手できる。
(5)ユーザーは、あらかじめ欲しいコンテンツをウェブサービスのウィッシュリスに登録しておく。
(6)購入を検討している商品をウェブで入力すると、「その商品を購入したらウィッシュリストのコンテンツのポイントがどれだけ増えるか」を計算してくれる。
(7)つまり、その企業が、あるいはその商品が、自分の趣味にあったコンテンツをどれだけ評価してくれていて、その商品の購入が、そのコンテンツの入手可能性をどれだけ高めてくれるのかを知ることができる。
(8)それによってその企業の文化的価値観を知ることができる。
(9)その情報によって、そうでなければ(今や)どれを買っても同じような商品を買うときの判断材料を得ることができる。
(10)原則として世の中のあらゆるコンテンツの流通は、このプラットフォーム上ですべて行う。

というのはどうだろう。