新しい批判のテクノロジー

政治家や組織の要職にある人間の「不用意な」発言がメディアで叩かれる、ということがよくある。場合によっては本人の「辞任」を求めさえする。
こういった「発言叩き」には、そのような発言が「面倒をもたらす」というメッセージを当人に伝え、そのような発言の「頻度を減らす」という表面的な効果はあるかもしれない。しかしながら、根底にある当人の態度・価値観の変革を促す効果は疑わしく、単に「態度・価値観は間違っていないがうっかり喋ってしまったので損をした」という理解をもたらすにすぎない可能性が高い。そうなると、本人は単に今後、態度・価値観は全く変えずに、そのような発言をしてしまうような機会(=取材を受ける機会)を減らす(=「合法的非存在化」)、批判の対象になりうるような明確な主張を避ける(=「合法的無意味化」)、という「対策」を取るようになるだけではないか。
それならばむしろ、多少の舌禍はあろうとも少なくとも「国民とのコミュニケーション」を継続してくれたほうがマシなのではないだろうか。発言を叩いて辞任させることは可能しれないが、それは見方によっては単に「自分より高い地位にある人間を引きずり下ろして溜飲が下がった」といううっぷんばらしに過ぎず、事態は改善されていないばかりか、(もしかしたら何らかの豊かな結果をもたらしたかもしれない)当事者との継続的コミュニケーションの機会をやみくもに破壊しているとも言えるのではないだろうか。
我々は、こういった「合法的非存在化」「合法的無意味化」というリアクションしかもたらさない要人発言叩きを再考すべき時期が来ているのではないだろうか。もちろん、発言を批判するなというつもりはない。発言内容は批判しつつも、コミュニケーションを継続すること自体は評価する、という二つのことを同時に伝えるべきだと思うのだ。
そのようなことを可能にする、新しい批判のテクノロジーが必要だ。