べき論と規範

「〜すべきだ」と言えば、相手がその通りに従うのか。あるいは、「〜すべきだ」と言いさえすれば、自分がなにがしかの責任を果たしていることになるのか。「べき論」に対してはいつもこのような違和感を覚える。
が、しかしだ。
べき論をすんなり受け入れてしまう人間がすくなからずいるという事実にも驚かされてしまう。
結果としてべき論が一定程度の有効性を持ってしまっているのだ。

規範とは何か。
「(1)人為的なルール」か。
「(2)自然の摂理の描写」か。
後者なら、むしろあえて唱えるまでもあるまい。

ハンナ・アレントの言うように、ユダヤ人に「ユダヤ的であれ」と命令するのは論理的に間違っている。なぜなら、ユダヤ人は、初めから、避けがたくユダヤ人であるからだ。仮に、いわゆる「ユダヤ的規範」に反しているユダヤ人がいるとしたら、彼(彼女)こそ、まさにユダヤ的なのだ。

(2)は通常、自然の摂理がAだから、人間もAに従うべきだ、という規範として語られる。
これは、最大限好意的に解釈すれば、たとえば「自然の摂理に従うほうが「効率的である」「リスクが少ない」「あなたが幸せになる」」ということを意味するのであろう。

しかし、もしそうだとすると、「効率的」であり、「リスクが少な」く、「幸せ」になれば、実は自然の摂理などどうでもよいのである。つまり、何かを「手段」として認識してしまうやいなや、それは代替可能なものになってしまうのである。

それを防ぐためには、それが手段であることを隠さなければならない。手段が意識されるのは、目的があるからである。ということは、手段を隠すためには、目的を隠さなければならない。

かくして、問答無用、「〜しなさい」という命令の形がとられる。しかるに、「〜しなさい」という形は、それを発している話者(主語)の正統性が問われる余地を残すので、さらにそれは、「〜すべきだ」という(主語のない)形に変形される。

すなわち規範とは、目的の隠蔽により手段性を隠蔽し、主語の隠蔽により正統性への疑義を隠蔽する「手段」である。

かくして規範は、「人為的なルール」と「自然の摂理」の境界線を曖昧にする。曖昧にしつつ、両者の特性を巧みに使い分ける。

もちろん私は、何も規範の欺瞞性を糺弾し、それを亡きものにしようとしているのではない。むしろ規範は我々にとって欠くことの出来ない「手段」であり、それを無邪気に糺弾する行為に対しては強い不快感を覚える。それと同時に、規範を無邪気に墨守する行為に対しても同様の感情を覚える。

つまりいずれも、規範の人為性、手段性に対する鈍感さのなせる業なのだ。