何故自分の頭で考えなければならないのか?

(1)「能力は個人に帰属する」という古典的枠組み
(2)いわゆる「自己責任論」による、セーフティーネット構築の社会的コスト(=自分は絶対失敗しないと考えている人間にとって、「愚かな」他人のために支払わなければならないコスト)の削減
(3)自分の頭で考えるために脳の性能を上げようとするけなげな人々に向けてのメディア&教育ビジネスのマーケティング
(4)「自分の頭で考えはじめた」時に生じる「価値観の真空状態」に乗じて別の価値観をタイミング良く注入しようとする政治的・宗教的意図。

まず(1)ね。
でもね、能力はコミュニティに帰属するんだよ。
どういうコミュニティに属していて、その中でどういう立場にいるか、が重要で、そのあたりを見ていくと「自分の頭で考える人」の典型例であるところの、いわゆる「専門家」「研究者」「学識経験者」といった人間の底が知れる。おまえは「巨人の肩の上」に出来たニキビじゃねーのかよ、と。

(2)〜(4)は陰謀説めいてるけど、言説をバリューチェーンとして考えるとこういう話にまで踏み込まざるを得ない。言説だって、燃料がないと持続できないんだからね。だいたい、「自己責任」って失敗した奴を貶める言葉になってるのは変だよね。本来、失敗しようがどうしようがリスクを取って生きる姿勢を評価する言葉だよね。

で、話はとぶけど、結局、誰も「合理的でない」どころか、そもそも「合理的な判断をしよう」なんて思っちゃいないんだよ。アカデミズムが言うところの「正確さ」なんか誰も求めていない。
あのね、みんなが関心があるのは、

「トラブルが起こったときの補償可能性」

これに尽きる。
寄らば大樹の陰とか付和雷同とか流行に弱いとかなんとか大衆批判はいつの世でもあるけれど、その選択が正確かどうか、合理的かどうかなんてどうだっていいんだよ。「大多数の他人の選択に自分も従う」ことの最大の理由は、たとえ何か問題が生じても「あとで企業や自治体や国が(そうでなくとも消費者団体やらマスコミが)なんとかしてくれる」という「信頼」なんだよ。
これって実はものすごく合理的でしょ?
「選択」の合理性じゃないんだよ。
ここが専門家とか識者とかリテラシー論者の話の全くズレているところ。
「選択の結果に対する補償可能性をいかに高めるか」の合理性なんだよ、本質は。

そこが自己責任論の二枚舌にもつながる。
マイナーな選択に対しては選んだ側に自己責任論をぶつけ、メジャーな選択に対しては「選択肢の供給者=企業、政府等」を糾弾する。
一貫性が全くない。

選択の結果に対する補償可能性。
この問題に真っ正面から取り組まないと、何も変わらない。
入り口だけ精密に論じても、出口で全部ひっくり返る。

本当に自分の頭で考えさせたいんだったら、マイナーな選択をも受容し、奨励し、結果に対するある程度の補償可能性を与えなければならない。それとセットで、メジャーな選択肢に対する「無条件の補償」を再考しなければならない。社会の「総補償量」はそう簡単に増やしたり減らしたりできるもんじゃない。

あとは、決定的なのは「ファクト」の開示と、ファクトの調査にかかるコストへの理解。「ファクト」の無い状態で「自分の頭で考えろ」なんて、何かに憑依でもされない限り無理。でも確かに「ファクトの調査にかかるコスト」はやっかい。個人個人が払うコストと、組織や社会全体が払うコスト。これを放っておくと、コスト削減の方向に行動パターンが流れていくのは当然。そうしないのはむしろ愚かでさえある。ファクト調査&分析のコストをどう削減していくか。これが今後の教育と、マスメディアと、行政の最重要課題だろう。
コストって金銭的コストだけじゃないよ。「そんなめんどくさいことやったってどうせたいしたことはわからない。俺の直感を信じて付いてこい」と言われることによる心理的摩耗、とかも含まれるからね。

正解とか、どうでもいいんだよ。
「一応納得のいく選択」を、「負担できる範囲のコスト」を払って、「手遅れにならない程度の早さ」で行い、その結果によって再び生じる問題を「一応納得のいく形で(他者や社会の助けを借りながら)リカバーする」というサイクルを、永遠に回していくこと。もちろん学びながらね。それが人生だ。
これをトータルで眺めて、どこをどう支援すれば「全体として効果的か」というのを考える人間が必要。「自分の頭で考えろ」という人間は、そこまで「自分の頭で」考えてから言って欲しい。