我々は何故「評価」を求めるのか

自分で自分の行為の価値を理解していればそれでいいじゃないか、と思うかもしれない。
違うのだ。

言わずもがなだが、我々は決して褒めてもらいたいわけでもない。
ましてや特別な報酬がほしいわけでもない。

我々が手がけていることは、その価値や効果や意味が必ずしも自明でないにも関わらず、それらが明らかになるのを待たずに、取り組まなければならない種類の事柄なのだ。

我々の行為が評価されると言うことは、すなわち我々の行為を評価した人間が、同じ行為を模倣したり、より進化させて実行したり、他者に伝えたり教授したりする可能性が開かれるということである。

この、行為の「なぞり」と「伝播」によって、「必ずしも自明ではなかった」その価値や効果や意味が、少しだけはっきりした輪郭を持つようになる。そして、その行為が再びなぞられ、伝播すれば、さらに輪郭の明瞭さが増す。この一連の過程が、何度も何度も繰り返されることによって、行為の価値や効果や意味が「創造」されるのである。

この、なぞりと伝播による創造、sense makingの一連の道筋への最初の扉が、「評価されること」によって開かれるのだ。なんだかわからなかったものが、未来の実在へ向けてバトンを渡すことができるようになるのだ。

我々の行為を評価するということは、そのバトンをしっかりと握り、受け取るということなのだ。

そうであるがゆえに、「評価されること」はかくも重要なのだ。
決して、内輪の慰めのための褒め合いのことを言っているのではない。
外へ向けて、意味という放物線を放つために。
価値というレンガを、一つ一つ積み上げて形にしていくために。
それは必要なのだ。

気づいているだろうか。
そうやって大切に、大切に育てていかなければならないほど、ある種の行為というのはあまりにもfragileなのだ。

他には何も望まないから、せめてその、fragilityに思いを馳せてほしい。
それだけで十分だ。