「愚かさに対する怒り」にどう向き合うか

専門家と称する人間、権威ある立場にある人間が、他ならぬ彼らの専門分野で露呈する「愚かさ」に対しては、単なる誤りの指摘を越えて、「怒り」に似た感情を覚えることがある。
彼らに指導される多数の人間や社会全体に大きな影響力を与える立場にありながら、なぜそこまで無責任なのか。
自分に与えられた特権的地位に対して社会が負担しているコストに見合う貢献を、なぜできないのか。
そもそも、なぜそのような「愚かさ」を持ったまま、そのような立場に立つことができたのか。
等等。
しかし一方で、こういった感情は単なるルサンチマン(=その立場に自分が立てなかったこと)を、体の良い正義でパッケージングしただけだと考えることもできる。相手が専門家だから、自分を安全圏に置いたままいくら叩いてもいい、というご立派な正義だ。
これは確かに醜い。とはいえ、専門家の側が、非専門家の意見をはねつける口実として、このような主張が便利に使われかねない危険性もある。
自戒すべきは、相手にルサンチマンをかぎ取られててしまっては、足元を見られるということだ。もちろんこれは、ルサンチマンを持つなということではない。そんなことは不可能であり、そう言っている人間がいるとすれば単に自分のルサンチマンに気づいていないだけであり、これは最悪のケースだ。
では専門家同士の場合はどうかというと、ここにもまた、事実を追求し、適切な判断を積み上げていくための建設的な議論、があるだけでは当然なく、彼らが(普段は隠している)ある種の本能的「攻撃性」を、免罪符を得て解き放つための巧妙な手段となっているようにも思われる。「本当は他人を攻撃したくてしたくてたまらない」専門家は、意外と多いものだ。
「激しい議論」を避けるべきだと言っているのではない。これも単に、自らの内なる攻撃性に、どこまで自覚的でいられるかという問題に過ぎない。