なぜ「私」は取り扱いづらいのか?

社会を変えるより「私」を変える方が困難だと思う人間はまずいないであろう。「社会を変えようとするならまず自分を変えろ」と言われたりするものだ。それはそうだろう。そのことに特に反論はない。

しかし往々にして、「私」というものは、想像以上に取り扱いづらいというのもまた事実である。

何故だろうか。

社会は、実は、長い年月をかけて、ほとんど社会の全ての構成員(その中には多数の天才的なソーシャルデザイナーも含まれる)によって総掛かりで、「取り扱い易くなるように」改良を重ねられてきた人工物なのだ。そして同時に、その人工物を扱うためのおびただしい量のノウハウも蓄積されている。

それに対して「私」というものは、私自身という未熟なデザイナーが、ほとんどただ一人で(他人は私に関心が無い)、たかだか数十年の間向き合ってきた存在に過ぎない。取り扱いノウハウの蓄積も、取り扱い可能性を高めるような対象の改良も、はなはだ不十分な形でしか行われていない。

そう考えると、「私」の取り扱いづらさの原因が見えてこないだろうか。たとえどんなに社会学や心理学や倫理学について学び、マネジメントの経験を積もうと、それは結局社会、あるいはせいぜい入れ替え可能な他者をそこそこ上手く取り扱うためにしか役立たない。私という、社会によって最も手つかずの対象を取り扱うのは、私自身でしかなく、そのためのノウハウは、いかなる知識(=社会的構成物)によっても獲得することができない。社会は(人間一般、あるいは類型化されたパーソナリティー、せいぜい時間変数や相互作用を織り込んだダイナミクスならともかく)「私としての私」には何の関心も無いからだ。

私が、私としての私についての扱いづらさを解消しようとして、社会的構成物としての(「私に関心のない者」によって蓄積された)知識を学ぶのは的外れだ。私を扱うスキルを高めるという点においては、単に役に立たないだけではなく、機会損失でさえある。