何も、「死」に限った問題ではない。

言葉や行動が精神状態をある程度反映しているのは事実だろうが、所詮「ある程度」でしかない。そもそも「精神状態」なるものは、一つのまとまりのある実態として存在しているわけではなく、多数のパラメーターの集積による複雑で動的なプロセスにすぎない。

「数日前に会ったときにはあんなに生き生きと将来の夢を語っていたのに」
「普段はあんなに元気だったのに」

あまりに想像力に欠ける言葉だ。

精神の一部分が瀕死の状態であっても、別の部分が全く同時に、生への執着や将来への希望を担う役割を果たし、(隣り合わせの瀕死の部分を差し置いて)言葉や行動をその表現手段として用いることなど、ごく日常的に生じていることだ。これら精神の各セクションの活動強度のバランス、そして表現手段の奪い合いの結果は、刻一刻と変化する。そして言葉や行動はと言えば、このような精神活動のダイナミズムをリアルタイムで表現するにはパラメーターの数が少なすぎ、解像度が荒すぎ、反応が遅すぎる。我々は、言葉や行動といったアウトプット機能の持つ制約条件に合わせて、精神状態の表現をいちじるしく単純化せざるをえないのだ。

何も、「死」に限った問題ではない。
人生におけるあらゆる(他人から観測される)不連続は、言動と精神の単純な相関に基づいたモデルで理解できるようなものではないのだ。
もちろん、粗雑な確率論をもって、どんなことでも起こりうると達観せよと言っているのではない。
出来事はすべからく、それが起こりうるだけのプロセスを経ている。その結果をたとえ一意に予測できなくとも、ある程度の納得感を持って受け止められるだけの一連の兆しは、過去という時間の中に確実に埋め込まれているのだ。
それがたまたま、あなたの穴だらけの観測網と推論能力では捕捉できなかったということにすぎない。
もちろんあなただけではない、誰であろうとも、その一連の兆しを十分に把握することは本来不可能だ。
それでも、その観測網の向こうにどのような可能性があるのか、いったいどのようなことが、ある程度の確からしさで起こりうるのかについて、せめてもう少し想像力が持てないものなのだろうか。