自分の中に存在しない必然性を、

他人のそれで埋め合わせることが、果たしてできるのだろうか。

この問いは、単に残酷であるばかりでなく、無意味だ。
必然性は、作り出せるものでもなく、それ無しに生きていけるものでもないからだ。
つまり人は、「必然性」との関係において、選択肢を持たない。

国の借金が増えるということ

国の借金が増えると何がまずいのか。単に「国家」の問題だけではなく、個人や企業や自治体にどんな問題をもたらすのか。貿易や外交においてはどうなのか。それらはいつ頃で、どの程度深刻なのか。
初歩的なことなのかもしれないが、これがわかっていないと、公共事業の削減等の政策は単に既存の受益者にとって「被害」としてしか受け止められない。昨日書いた記者クラブ問題と同様、上記内容を簡単に解説するウェブサイトを立てて、議論をするときはつねにこれを参照するように習慣づけることによって、議論のいたずらな混乱を防ぐことができるのではないだろうか。
ウェブ上の報道ではこのような「常時参照」が技術的に可能なのだから、ぜひ実現して欲しい。

記者クラブ問題について誤解と危惧を解消する解説がほしい

記者クラブ制度の廃止=「ノーチェックで誰でも」記者会見に参加できる」と誤解している人、また、チェックするにしても負担が過大になると危惧している人が少なくないのでは?議論の混乱を防ぐために、諸外国の事例をひくなどしてこのあたりの誤解、危惧を解消する解説がほしい。

と思っていたら、神保哲生氏の極めて明快でタイムリーな解説文が。
http://www.jimbo.tv/commentary/000583.php
できれば、さらに具体的な記者会見オープン化のしくみを知りたいところだ(具体的に誰がどうやって個々の取材希望者を審査してパスを発行しているのか、等)。そのような情報を提供しているサイトは(海外のものでも構わないので)無いのだろうか。

新しい批判のテクノロジー

政治家や組織の要職にある人間の「不用意な」発言がメディアで叩かれる、ということがよくある。場合によっては本人の「辞任」を求めさえする。
こういった「発言叩き」には、そのような発言が「面倒をもたらす」というメッセージを当人に伝え、そのような発言の「頻度を減らす」という表面的な効果はあるかもしれない。しかしながら、根底にある当人の態度・価値観の変革を促す効果は疑わしく、単に「態度・価値観は間違っていないがうっかり喋ってしまったので損をした」という理解をもたらすにすぎない可能性が高い。そうなると、本人は単に今後、態度・価値観は全く変えずに、そのような発言をしてしまうような機会(=取材を受ける機会)を減らす(=「合法的非存在化」)、批判の対象になりうるような明確な主張を避ける(=「合法的無意味化」)、という「対策」を取るようになるだけではないか。
それならばむしろ、多少の舌禍はあろうとも少なくとも「国民とのコミュニケーション」を継続してくれたほうがマシなのではないだろうか。発言を叩いて辞任させることは可能しれないが、それは見方によっては単に「自分より高い地位にある人間を引きずり下ろして溜飲が下がった」といううっぷんばらしに過ぎず、事態は改善されていないばかりか、(もしかしたら何らかの豊かな結果をもたらしたかもしれない)当事者との継続的コミュニケーションの機会をやみくもに破壊しているとも言えるのではないだろうか。
我々は、こういった「合法的非存在化」「合法的無意味化」というリアクションしかもたらさない要人発言叩きを再考すべき時期が来ているのではないだろうか。もちろん、発言を批判するなというつもりはない。発言内容は批判しつつも、コミュニケーションを継続すること自体は評価する、という二つのことを同時に伝えるべきだと思うのだ。
そのようなことを可能にする、新しい批判のテクノロジーが必要だ。

「悪い人」

「悪いことが起こっているのは、誰か悪い人が悪いことをしているからだ」「悪いことをしている人は心がけに問題があって、心を入れ替えたら行動が改善されて問題が解決する。」「だから、心を入れ替えるように説得するか、それがダメなら悪い行動ができなくなるようにルールを決めるのがよい。」
という単純なモデルを、個人ではなく「社会全体」に当てはめようとするときに起こる悲劇。

ある選択を批判するということ

ある選択を批判するとき、その選択のデメリットのみに焦点が当てられ、メリットの方には関心が払われないだけではなく、それ以外にそもそもどのような選択が(現実的に)ありうるのか、それ以外の選択がどのような帰結をもたらすのかについて、全く無関心であることが多いのは、極めて不思議なことである。
更に言えば、その選択を行わざるをえない状況をつくった「原因」が過去の第三者にあるとき、その選択のデメリットの責任を誰に帰するのかについて、非常に議論が混乱していると思う。

なぜ「私」は取り扱いづらいのか?

社会を変えるより「私」を変える方が困難だと思う人間はまずいないであろう。「社会を変えようとするならまず自分を変えろ」と言われたりするものだ。それはそうだろう。そのことに特に反論はない。

しかし往々にして、「私」というものは、想像以上に取り扱いづらいというのもまた事実である。

何故だろうか。

社会は、実は、長い年月をかけて、ほとんど社会の全ての構成員(その中には多数の天才的なソーシャルデザイナーも含まれる)によって総掛かりで、「取り扱い易くなるように」改良を重ねられてきた人工物なのだ。そして同時に、その人工物を扱うためのおびただしい量のノウハウも蓄積されている。

それに対して「私」というものは、私自身という未熟なデザイナーが、ほとんどただ一人で(他人は私に関心が無い)、たかだか数十年の間向き合ってきた存在に過ぎない。取り扱いノウハウの蓄積も、取り扱い可能性を高めるような対象の改良も、はなはだ不十分な形でしか行われていない。

そう考えると、「私」の取り扱いづらさの原因が見えてこないだろうか。たとえどんなに社会学や心理学や倫理学について学び、マネジメントの経験を積もうと、それは結局社会、あるいはせいぜい入れ替え可能な他者をそこそこ上手く取り扱うためにしか役立たない。私という、社会によって最も手つかずの対象を取り扱うのは、私自身でしかなく、そのためのノウハウは、いかなる知識(=社会的構成物)によっても獲得することができない。社会は(人間一般、あるいは類型化されたパーソナリティー、せいぜい時間変数や相互作用を織り込んだダイナミクスならともかく)「私としての私」には何の関心も無いからだ。

私が、私としての私についての扱いづらさを解消しようとして、社会的構成物としての(「私に関心のない者」によって蓄積された)知識を学ぶのは的外れだ。私を扱うスキルを高めるという点においては、単に役に立たないだけではなく、機会損失でさえある。