認識論者は認識論を説明できない

「○○は実在するか、それとも認識によって生成されているにすぎないか」という問いがある。

もし、認識論者が「全ての対象は認識によって生成されているにすぎない」と主張するならば、その前提として「認識によって生成されているにすぎないもの」と「そうでないもの=実在するもの」がどのように違うのかを説明しなければならない。そのためには、「実在とは何か」について説明しなければならない。しかし彼にとっては「全ての対象は認識によって生成されているにすぎない」わけだから、「実在」さえもその例外ではない、つまり「実在とは認識によって生成されたものの一種である」と説明するしかない。そうなると、「区別」が消滅し、「○○は実在するか、それとも認識によって生成されているにすぎないか」という問いそのものが無意味なものになってしまう。

持続可能性という欺瞞

ユートピアは死に、代わって秩序無き(思想という意味での)かたちのクリエイティヴィティを、何の抑制もないままにぶちまけること、それは商品支配を実証すること以外のなにものでもない。プロジェクトは商品支配を忌避して存在することなどできないと言い切ること、それは、人はいずれ死ぬのだからプロジェクトする価値はないとか、葬儀品をプロジェクトしていればよいというのも同然なのである。」(エンツォ・マーリ『プロジェクトとパッション』)


何が、持続するに値するものなのか、という問い。
誰にとっての持続なのか、という問い。
それらにおいて「私」はどこに位置を占めるのか、という問い。
持続しないものに価値はないのか、という問い。
そもそも、全ては持続不可能なものなのではないか(あえて言うならば、持続不可能性こそが唯一持続可能なものなのではないか)、という問い。

これらの問いを一度も発したことのない「持続可能性」論者は信用できない。

何も、「死」に限った問題ではない。

言葉や行動が精神状態をある程度反映しているのは事実だろうが、所詮「ある程度」でしかない。そもそも「精神状態」なるものは、一つのまとまりのある実態として存在しているわけではなく、多数のパラメーターの集積による複雑で動的なプロセスにすぎない。

「数日前に会ったときにはあんなに生き生きと将来の夢を語っていたのに」
「普段はあんなに元気だったのに」

あまりに想像力に欠ける言葉だ。

精神の一部分が瀕死の状態であっても、別の部分が全く同時に、生への執着や将来への希望を担う役割を果たし、(隣り合わせの瀕死の部分を差し置いて)言葉や行動をその表現手段として用いることなど、ごく日常的に生じていることだ。これら精神の各セクションの活動強度のバランス、そして表現手段の奪い合いの結果は、刻一刻と変化する。そして言葉や行動はと言えば、このような精神活動のダイナミズムをリアルタイムで表現するにはパラメーターの数が少なすぎ、解像度が荒すぎ、反応が遅すぎる。我々は、言葉や行動といったアウトプット機能の持つ制約条件に合わせて、精神状態の表現をいちじるしく単純化せざるをえないのだ。

何も、「死」に限った問題ではない。
人生におけるあらゆる(他人から観測される)不連続は、言動と精神の単純な相関に基づいたモデルで理解できるようなものではないのだ。
もちろん、粗雑な確率論をもって、どんなことでも起こりうると達観せよと言っているのではない。
出来事はすべからく、それが起こりうるだけのプロセスを経ている。その結果をたとえ一意に予測できなくとも、ある程度の納得感を持って受け止められるだけの一連の兆しは、過去という時間の中に確実に埋め込まれているのだ。
それがたまたま、あなたの穴だらけの観測網と推論能力では捕捉できなかったということにすぎない。
もちろんあなただけではない、誰であろうとも、その一連の兆しを十分に把握することは本来不可能だ。
それでも、その観測網の向こうにどのような可能性があるのか、いったいどのようなことが、ある程度の確からしさで起こりうるのかについて、せめてもう少し想像力が持てないものなのだろうか。

生きていると必ず物語が作られる

日々経験する無限の出来事の断片を事後的に振り返って拾い集め、そこに文脈を発見(というより発明)し、私は確かに意味のある生を生きてきたのだと再確認する。
それどころか、「そのような過去の再確認をするために」、わざわざ特定の未来を選択しさえする。かくのごとく過去の意味づけは私たちにとってvitalなのだ。
未来に目を向けよ、現在の瞬間を大切にせよ、との言葉の真意は、実は、「過去を意味あるものにtranslateするためにこそ未来や現在を(手段として)活用しなければならない」ということなのではないだろうか。
そのような再確認行為をレンガごとく積み重ね、それを支えとすることで、私たちは生きていくことができる。
私たちは日々、つじつま合わせをしている。
私たちは日々、物語を作っている。
生きていると必ず物語が作られる。
なぜなら、物語を作ることが出来なくなってしまった人間は、とっくに死んでいるからだ。

悪い奴をいい奴に改心させるのが成功だという神話

にとらわれている人が多いのだろう。これは3つの点で間違っている。
1)心の持ちようの問題ではない。悪い奴が悪い奴として安定的に存在しうる仕組みの問題なのだ。
2)何が悪いかいいかを自分(だけ)は見極められると思っている。ありえない。
3)悪い奴を悪いと批難しさえすれば改心すると思っている。ありえない。

従って現実には何がおこるかというと、何の効果もない「運動」が永遠に続くだけだ。
百歩譲って万が一無理矢理変えさせることができたとして、(システムの力学を無視しているので)たいていの場合かえってろくでもない結果を招く。

対象に人格を見いだすな。そもそも、人でないものを擬人化するな。
対象が(たとえ生物学的には人間であったとしても)果たしている機能と、その機能を存続せしめている環境条件のみに注目せよ。

「愚かさに対する怒り」にどう向き合うか

専門家と称する人間、権威ある立場にある人間が、他ならぬ彼らの専門分野で露呈する「愚かさ」に対しては、単なる誤りの指摘を越えて、「怒り」に似た感情を覚えることがある。
彼らに指導される多数の人間や社会全体に大きな影響力を与える立場にありながら、なぜそこまで無責任なのか。
自分に与えられた特権的地位に対して社会が負担しているコストに見合う貢献を、なぜできないのか。
そもそも、なぜそのような「愚かさ」を持ったまま、そのような立場に立つことができたのか。
等等。
しかし一方で、こういった感情は単なるルサンチマン(=その立場に自分が立てなかったこと)を、体の良い正義でパッケージングしただけだと考えることもできる。相手が専門家だから、自分を安全圏に置いたままいくら叩いてもいい、というご立派な正義だ。
これは確かに醜い。とはいえ、専門家の側が、非専門家の意見をはねつける口実として、このような主張が便利に使われかねない危険性もある。
自戒すべきは、相手にルサンチマンをかぎ取られててしまっては、足元を見られるということだ。もちろんこれは、ルサンチマンを持つなということではない。そんなことは不可能であり、そう言っている人間がいるとすれば単に自分のルサンチマンに気づいていないだけであり、これは最悪のケースだ。
では専門家同士の場合はどうかというと、ここにもまた、事実を追求し、適切な判断を積み上げていくための建設的な議論、があるだけでは当然なく、彼らが(普段は隠している)ある種の本能的「攻撃性」を、免罪符を得て解き放つための巧妙な手段となっているようにも思われる。「本当は他人を攻撃したくてしたくてたまらない」専門家は、意外と多いものだ。
「激しい議論」を避けるべきだと言っているのではない。これも単に、自らの内なる攻撃性に、どこまで自覚的でいられるかという問題に過ぎない。